末吉城跡
末吉城は、建久7年(1196)島津忠久に従った稲村伊賀重家の築城に始まります。室町期の永享4年(1432)頃には島津氏9代島津忠国が居館として利用し、都城や末吉等を管治しました。
その後、庄内の乱の時には、伊集院方の十二外城のひとつです。この乱後、末吉城を中心に末吉外城が形成され、各地から郷土が呼び寄せられました。
末吉城は別名亀鶴城とも言われ、内城・中之城・松尾城・南之城・野久尾城・取添城・小松尾城・平城・小平城(下平城)の九城から構成される広大な城域でしたが、元和偃武の際に取り壊されて、地頭仮屋(現ひこばえ保育園)が野久尾(野首)城におかれました。その後、地頭仮屋の周りに麓が形成され、田村から中原方面の野町がありました。また、郷土の墓は興昌寺に多く建てられました。
宝暦5年(1755)、地頭仮屋が現在の末吉中学校の所に移転され、城は放棄されました。
現在、中之城跡や地頭仮屋跡の西側に曲輪や空堀が確認できます。