平 季基の墓
平季基の墓が南之郷橋野の若一王子神社近くにあります。季基は、末吉や都城の基礎をつくった人物ともいえます。
季基は太宰大監でしたが、万寿3年(1026)に奈良宗と共に日向国諸県郡島津に来て開荘し、関白藤原頼通に寄進しました。
これが「島津荘」と呼ばれる薩摩・大隅・日向にわたる日本一の大荘園へと発展していきました。
後に、惟宗忠久が守護職として任命、島津姓を名乗りました。
季基は時の権力者に巧みに取り入り勢力を拡大し、長元2年(1029)には子の兼光や大隅の豪族伴氏らとともに、大隅国府や大隅守の館などを襲撃し、大隅国の国有財産を掠奪するという大事件も起こしています。
晩年は女婿の伴兼貞に荘官を譲り、橋野本明に退隠し若一神社を建て、初代の司官となったといいます。
また、都城の神柱神社を創建(当初は梅北に創建。現在の黒尾神社)したのも季基です。
島津荘を譲られた伴兼貞の長男兼俊は肝付氏、次男兼任は萩原氏、三男俊貞は安楽氏、四男行俊は和泉氏、五男兼髙は梅北氏の祖となるなど、伴氏の一族は各地へ広がっていきました。
なお、この墓の近くにあった祠に「伝・平季基像」があったが、現在は都城の基柱神社に御神体として祭られています。