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恒吉城跡

恒吉城跡

恒吉城跡は、大隅町恒吉の麓にある中世の山城で築城年代は不明です。
城内は日輪城、東高城・西高城からなり、それぞれ大きな空堀で仕切られています。
日輪城跡は、他の二つの城郭と比較すると、周囲が絶壁で囲まれており、全体の郡郭を総括する本城的な位置づけであったと推定されています。
城内には、曲輪・土塁・空掘、虎口・畝状竪堀群が良好に残り、戦国期最終末期の姿を残す城郭です。

天文14年(1545)、山田久時が領主の時、肝付兼続の攻撃で落城したのを契機に、度々領主が入れ替わるようになり、文禄4年(1595)には伊集院幸侃の所領となります。

慶長4年(1599)の庄内の乱(庄内合戦)では、都城を本城とする十二外城の一つとして機能し、伊集院宗右衛門が守将として入りました。
同年6月22日島津図書忠長、樺山権左衛門久高、柏原将監公盛が3,000人を率いて恒吉城を攻撃したが、城壁堅固で容易に落ちなかったといいます。
同月25日、久高の説得により開城、宗右衛門は都城に退去しました。
開城後、寺山四郎左衛門久兼が入城し、乱終結後、久兼がそのまま恒吉郷の初代地頭となりました。

スポット概要

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