平田三五郎と宮内式部の墓
島津家臣の平田三五郎宗次は、相当の美少年であったといい、吉田大蔵清家と義兄弟の契りを結び、慶長4年(1599)の庄内の乱(庄内合戦)で、先に討死した大蔵に殉じました。
享年15歳といいます。
三五郎のこの行動に島津家の人々は感動し、その忠義の精神は、後に武士間の衆道を描いた「賤のおだまき」のモデルとなり、二才達の間で愛読されたといいます。
平田三五郎の物語は、鹿児島では江戸時代から明治時代まで広く読まれており、明治以降は、森鷗外らの作品により、全国的に知られるようになりました。
ここで語られる武士道の精神は、薩摩藩における郷中教育の成立を考えるうえでも重要な事柄であります。
三国名勝図会によると、元々は塚が墓標だったが、後に子孫の平田利左衛門が墓石を建てたとあります。その後、明治38年(1905)に新たに造り直され、現在に至っております。
また戦時中は、墓石の正面を削り、石片を御守りにしていたといい、民族資料としても興味深いものがあります。
隣には同じく庄内の乱で塔討死した宮内式部の墓があります。
三五郎は式部の甥でありますが、式部も15歳であったといいます。