2021年04月13日
大隅町須田木川路山の六地蔵塔は、元禄15年(1702)のもので、幢身の正面に「奉造竜喜神」、左面に「元禄十五年十一月八日」、裏面に「□山市王」(□は霧か)と刻まれています。 廃仏毀釈の影響か、地蔵の顔面は削られています。 …
2021年04月13日
大隅町須田木川路山の六地蔵塔は、元禄15年(1702)のもので、幢身の正面に「奉造竜喜神」、左面に「元禄十五年十一月八日」、裏面に「□山市王」(□は霧か)と刻まれています。 廃仏毀釈の影響か、地蔵の顔面は削られています。 …
2021年04月13日
現在、投谷八幡宮の入り口付近に、二つの千人塚が残っていますが、これは宮ケ原の戦いの戦死者を祀ったものといいます。 肝付氏と島津氏の抗争は長く続きましたが、永禄元年(1558)3月19日、高山城主肝付兼続と都城城主の北郷時 …
2021年04月13日
慶長4(1599)年の庄内の乱で、恒吉城は島津方によって落城しました。 その後、恒吉郷が設置され、初代地頭に寺山四郎左衛門久兼入道常雲(1567-1611)が任命されました。 久兼は、島津氏の九州北伐や朝鮮の役等、各地で …
2021年04月13日
明治10年(1877)、2月、旧薩摩藩の士族を中心とした反政府暴動が起きました。 いわゆる西南戦争(西南の役)です。 この戦いは同年9月24日に西郷隆盛が自刃するまでの間、九州の中部・南部を舞台として展開しました。 市内 …
2021年04月13日
志布志の新納忠武は島津勝久に対してしばしば反逆を企てたので大永3(1523)年、勝久は伊地知重周・吉田某を将として月野伊屋松で戦いました。 しかし勝久方は大敗し730余名が戦死しました。 これはその時の戦死者の塚と伝えら …
2021年04月13日
慶長7(1602)年4月26日、島津龍伯(義久)と忠恒(後の家久)および家臣達が、投谷八幡宮に奉納した時に詠んだ和歌が、懐紙・短冊に残されています。 この時、龍伯らは「卯の花」と題して歌を詠んでいます。 また、文化5年( …
2021年04月13日
大隅町坂元に伝わる神牟礼太鼓踊りは、昭和9年の干ばつの時の雨乞いで復活、現在は、毎年11月3日の弥五郎どん祭りで披露されています。 服装は、鉦打ちが浴衣に袴、黒足袋、草履、花笠。 太鼓打ちは、背に矢旗、長袖襦袢に水色の股 …
2021年04月13日
與頭役・庄屋・郡見廻牛馬役兼務等の扶持辞令書、信教の自由を許された明治9年(1876)の本宗帰依者証や系図等があります。 写真は「一、五拾町村庄屋 一、真米一石八斗先 馬場清八 右之通年数八ヶ年勤方 被仰付、御扶持方被下 …
2021年04月13日
天保4(1833)年2月の記録です。の中の一つ高頭附帳の特徴は、五拾町村と中之内村の石高を、門と屋敷をそれぞれ記録していることです。 この記録によると、この地方の門は20石以上、屋敷は20石未満になっています。 こうした …
2021年04月13日
太田神社所蔵の鏡で、菊花雙鳥鏡など鎌倉時代2面、南北朝時代4面を含む17面があります。 このうち市指定文化財の鏡は、菊花雙鳥鏡・亀甲地雙雀鏡・菊花紋雙雀鏡・菊花雙雀鏡・梅花雙雀鏡2面です。 現在、大隅郷土館にて展示してい …